大島高任年表


年  代 記                事
文政9年
(1826)


天保13年
(1842)17歳

弘化3年
(1846)21歳



嘉永4年
(1851)26歳

嘉永5年
(1852)27歳
嘉永6年
(1853)28歳

嘉永7年
(安政元年)
(1854)29歳



安政2年
(1855)30歳

安政3年
(1856)31歳


安政4年
(1857)32歳


安政5年
(1858)33歳




万延元年
(1860)35歳

文久元年
(1861)36歳


文久2年
(1862)37歳

文久3年
(1863)38歳


慶応元年
(1865)40歳

慶応2年
(1866)41歳
慶応3年
(1867)42歳
明治元年
(1868)43歳


明治2年
(1869)44歳

明治3年
(1870)45歳
明治4年
(1871)46歳

明治5年
(1872)47歳
明治6年
(1873)48歳







明治7年
(1874)49歳

明治8年
(1875)50歳

明治9年
(1876)51歳
明治10年
(1877)52歳

明治11年
(1878)53歳

明治13年
(1880)55歳

明治15年
(1882)57歳
明治16年
(1883)58歳

明治19年
(1886)61歳

明治20年
(1887)62歳

明治21年
(1888)63歳

明治22年
(1889)64歳


明治23年
(1890)65歳

明治25年
(1892)67歳
明治28年
(1895)70歳


明治30年
(1897)72歳

明治33年
(1900)75歳

明治34年
(1901)76歳
5月11日大島周意の嗣子として盛岡藩の城下仁王小路に生まれる。
幼名を文治、のちに周禎、総左衛門、明治2年鉱山権正(次官)に就任後は高任と称した。

著名な蘭学者、箕作阮甫に学ぶ。翌14年4月からは坪井信道の日習堂の門下。3年後帰藩。

長崎で医学修業。藩命に従わず、西洋流兵法、砲術、採鉱、精錬を学ぶ。高島秋帆の息子浅五郎より西洋流砲術の皆伝資格。学友手塚律蔵と共訳したのが、ヒュゲエニンの冶金学の技術書「鉄熕鋳造篇」(鉄熕とは大砲の事)

御鉄砲方に就任。藩士たちに西洋砲術、兵術を教練。周禎改め名を総左門

西洋砲術研究のため、江戸の伊東玄朴の象先堂に入門。

黒船来航。水戸藩御側御用人藤田東湖に大砲鋳造用の溶解炉「反射炉」の模型を披露。

徳川斉昭に三春藩士熊田嘉門、薩摩藩士竹下清右衛門と共に招かれる。射炉模型を見て斉昭、築造を決める。大島、耐火煉瓦材の粘土を採掘調査。反射炉を那珂湊に築造する事に。大島の才能を見抜き水戸藩は300石で召し抱えようとするが(大島は66石)220余年の臣籍の恩義が盛岡藩にありと言って辞退。

11月に反射炉完成。10月に江戸大地震。水戸も被害が大きかったが、基礎築造がよく反射炉に異常なし。水戸藩の信頼を得る。

モルチール砲(臼砲)鋳込み、試射に成功。だが、砂鉄銑を原料としては大砲鋳造には適さず、柔鉄(鉄鉱石による高炉銑)を求めて盛岡藩の釜石・大橋へ。大島は貫洞瀬左衛門の出資で高炉築造へ。

3月、大橋に高炉一座竣工。藩は大砲鋳造御用懸(係)を命ずる。11月26日火入れ、12月1日初出銑(1858年1月15日)状況は良くなく、12月10日ようやく順調に。

ヒュゲエニンの技術書にある小型の丸フイゴでは送風量足りず、大島は、地元の鍛冶職の角型フイゴを応用。角型の大きなフイゴにして操業は著しく向上水戸へ2700貫余(約10.12トン)の高炉銑を送る。水戸はこれを用いて良質の大砲を鋳造。安政の大獄で徳川斉昭謹慎。反射炉閉鎖。後に水戸天狗党の乱で破壊される。

御国産方頭取、勘定奉行格、幕府の番所調所教授手伝(洋学所)長子道太郎生まれる。父隠居、家督を継ぐ。18駄5人扶持高に66石取。

大橋高炉、2座増設して3座操業。同志18名と洋学の日新堂創設。砲術、精錬、英語、物理、化学など藩士に教える。生徒に新渡戸稲造、田中館愛橘。高任は総督。

箱舘(函館)に抗師学校を興す.専門工業学校のはしり。8月から北海道の石炭山調査。

藩に建白書。教育、徴兵、軍艦建造、勧業殖産、国借(国債)発行など。北海道ユウラップで火薬発破による鉱山採掘を試みる。これも本邦初の試みか。

大橋、橋野の高炉操業の成功で銀5枚拝領。宮古にも高炉場を築造する命令あり。1年後取りやめ。

勘定奉行加。鹿角銀山を検分して開発に入る。

小坂銀山御用懸。尾去沢鉱山御用懸。10月将軍慶喜大政奉還。

大砲御用仰付。フランスの武器商人と武器購入交渉 。御軍事懸。盛岡藩、奥州同盟に加わり、心ならずも朝敵となる。南部藩は禄高20万石から13万石に減封され12月、白石へ転封。

勘定奉行。大島は登用され大学校大助教授。12月鉱山権正。.名を高任と改める。小坂鉱山へ出張。   

抗学寮創設を大木民部大輔に進言。

大島の進言が通り8月、工学寮(後の東京大学工学部)創設。鉱山助。12月、岩倉使節団に随行してヨーロッパへ。

諸国を回り,鉱山,製鉄所,機械工場,鉱山学校などを視察。

1月大島はまだドイツにいた。フライベルクの製鉄所で一見した操縦法は大島を唖然とさせた。ドイツのフライベルクで「1860年までの製鉄法は廃業している。当今の方法は、ここ三年ばかりの間に開発されたものである。もちろん、未だ書籍にその新方法を著したものはない。よって私に2カ月の滞在をこのフライベルクの地に許していただきたい」と上申している。伊藤博文(全権副大使)はこれを認めた。帰国は、6月まで延期され、ヨーロッパ最古の鉱山大学フライベルク大学に留学西洋の最も新しい製鉄法を身につけて6月25日帰国。九州の鉱山を視察。

4月釜石鉱山の官業決まる.官営製鉄所の建設へ.大島、ビヤンヒー技師と建設、敷地をめぐって意見衝突.採決を仰ぐ。

ビヤンヒー案通り、大島は官営製鉄所から身を退く。十和田銀山開発.鉱山権頭。

北海道の鉱山点検。工部一等技長。

閑職.第1回内国勧業博覧会審査員.12月嗣子道太郎、ドイツ、フライベルク大学留学の途に。

福島県軽井沢銀山を経営.資本金乏しく翌年,古河市兵衛らと共同経営.13年に弟高致に委ねる。

7月,帰国.小坂鉱山分局主任.小坂,十和田の銀山の精錬法、設備を改良。  

阿仁鉱山と小坂分局の局長。勲五等。道太郎帰国。

3月、工部大技長。9月、阿仁鉱山局長。10月、小坂も局となり両鉱山局長を兼務。阿仁鉱山は18年に古河市兵衛に払下げ

1月2日、大蔵一等技師。14日、佐渡工業(鉱山)所長。5月12日、佐渡鉱山事務長、同日奏任官一等。

佐渡で新堅坑を開発。後に高任坑と名付けられる。田中長兵衛、釜石鉱山払下げ。   田中製鉄所創立。  

5月、勲四等。2月から病み、東京へ転地療養。本省(大蔵省)で佐渡鉱山の業務を統轄。那須野を開墾、葡萄園をつくる。

二男専次郎フライベルク大学留学。3月21日大蔵技監。勅任官二等。佐渡鉱山局勤務3月26日従四位。3月退官。4月フランス鉱山及金石萬国公会(博覧会)名誉会員。

3月、日本鉱業会初代会長に就任。10年務める。「那須葡萄酒」の醸造開始。

正四位

隠居。家督を道太郎に譲る。道太郎は29年6月、八幡製鉄所の創設に当って初代技監となり欧米出張。東京西ヶ原に「茶園」開設、のちの旧古河庭園。

この頃、那須野葡萄酒を市場販売。本格的な外国種によるワインを醸造、私販のはじめ。

妻八十(やそ)没。
那須野の葡萄園、醸造設備を高田慎蔵に譲渡。

3月29日没。勲三等。このとき嗣子道太郎は八幡製鉄所の技術部長として欧米出張。その帰途上海におり帰国を待って4月4日谷中天王寺に埋葬。
戒名「大量院殿智順良鑑大居士」