大島道太郎年表


年  代 記                事
万延元年
(1860)
明治3年
(1870)10歳
明治10年
(1877)17歳

明治11年
(1878)18歳
明治14年
(1881)21歳
明治15年
(1882)22歳

明治16年
(1883)23歳
明治17年
(1884)24歳
明治22年
(1889)29歳

明治23年
(1890)30歳

明治24年
(1891)31歳


明治27年
(1894)34歳

明治28年
(1895)35歳


明治29年
(1896)36歳
明治30年
(1897)37歳
明治31年
(1898)38歳
明治32年
(1899)39歳
明治33年
(1900)40歳
明治34年
(1991)41歳
明治36年
(1993)43歳
明治40年
(1907)47歳
明治41年
(1908)48歳
明治42年
(1909)49歳
大正3年
(1915)55歳




大正5年
(1917)57歳
大正10年
(1922)62歳
岩手県盛岡にて生まれる。

8月大学南校へ入学。

4月東京大学理学部採鉱冶金学修業。
2月自費でドイツへ留学。

4月ドイツ「フライベルク゛」鉱山大学へ留学。

10月ドイツ「フライブルク゛」大学卒業冶金工師の学位を受ける。

5月青森県南津軽郡尾太(オップ)鉱山より銀銅を抽出する為フントドークラス法を応用し自己考案の折衷法により濕式製煉場建設。

秋田県八森銀山の銀採収の為「ターガスチン」濕式法による工場建設。

秋田県鹿角郡小真木鉱山に日本鉱業会模範的な製煉場を建設。

秋田県仙北郡畑鉱山金銀鉱より金銀採収の為「ムンクテル及びオーガスチン」法により濕式製煉場を建設。

宮城県栗原郡細倉鉱山銀鉛採収の為坑内外の諸設備及「ビルツ」式溶鉱炉等建設として金属鉱山を審査。

2月宮内省御料局技師に任ぜられる。
第3回内国勧業博覧会審査官として金属鉱山の審査。
御料局生野支庁生野鉱山技師拝命の上同鉱山の設備改良に着手。

7月御料局生野支庁大阪製煉所長に任ぜられる。8月工学博士の学位を受ける。   欧州各国視察。

第4回内国勧業博覧会審査官として金属鉱山を審査。12月御料局技師を退職。
広島県岩子島製煉所を新設経営、銅鉱の中央製煉所の業務を開始。

6月八幡製鉄所創設に当り製鉄所技監に任ぜられる。8月欧米視察。

欧米視察から帰朝。

10月技監廃止で同32年技術部長兼工務部長に任ぜられる。

清国へ視察。

9月再び欧米各国へ留学。

4月欧米視察から帰朝。

10月製鉄所工務部長を辞職。

東京勧業博覧会審査官を命ぜられる。

2月東京帝国大学工科大学教授に任ぜられる。

鉱毒調査会委員をおおせつけられる。6月勲三等に叙せらる。

2月休職。大学在職中教務の傍ら住友別子銅山堅坑及第四通同の設計及び本渓湖謀鐵公司の炭坑並に製鉄所の設計指導をする。
 有限公司漢治萍謀鐵所最高顧問技師に就任し、自ら任地支那漢口に於て大治鐵山等の総督に当り、八幡製鉄所に対する鐵鑛の供給を豊富円滑にした。

2月従三位に陛叙。

10月11日漢口に於て没す。10月14日勲二等に陛叙す。谷中天王寺に葬る。