曽祖父高任は元来が無口で無愛想で口下手な人だつたので、よく建白書を書きました。明治4年の岩倉使節の一員として欧米へ行った時真面目で一つの事に突き進む性格から「猪」とあだなをつけられた。
大変勉強家で行動力も有り、専門書以外に蘭書を中心に佛英、ラテン語、算術書、造船等の本が有りました。自筆の西洋兵術の本も2冊有りましたし、藩所調所の印の押した本もありました。晩年、息子の道太郎がある朝挨拶に行くと正座して書見しているので、翌朝、もっと早く行って見ると又、書見勉強をしていた。何時寝て何時起きられるのかと敬服していたとの事です。清廉な人でも有ったようです。水戸藩に300石で招かれた時、自分は66石でした。先祖が南部藩に仕えることが出来た恩義があるのでとことわり、水戸藩を辞す時、徳川斉昭から刀を頂きました。その刀が今、鉄の歴史館にあります。厳しい人でもあった。本郷に始めて家を建た時、盛岡から大工さんを呼んで建てたらしいのですが、留守中に出来上がり、出来上がった家を見て天井の低いのに気付き、短い柱を使ったと怒り、出入り禁止にしたそうです。
生活振りは質素であった様です。曽祖母は倹約家であり厳しい人で盆暮れには自分の家の畑で作った野菜を親戚に配ったそうです。本郷の家に蔵が有りましたが佐渡鉱山長をしていましたから人は金でも有るかと思った様ですが金は私すべからずと言って、書画、骨董品すら有りませんでした。しかし本は多く有りましたハイカラなところも有ったようで、夫婦でベットに寝ていた時も有ったようで、本郷の物置にベットが残っていました。色々なことをやった人で晩年は那須にぶどう園を作りましたが、結局、ハチブドウ酒に売ったようです。物置に那須ぶどう酒と書いた箱がありました。
高任は、孫を大変可愛がったようで、長女シゲの長男及川古志郎は西ヶ原に有った茶畑へは時々遊びに行ったそうです。私の父、文郎は小さい時よくしゃべったので、自分も道太郎も口下手だが、これからは辯論の出来る方が良いと云ったそうです。次女久の長男山口武雄は本郷の家に分析所が有り、そこへ連れて行ってもらっては赤い色の甘い水を造って飲ませてもらっそうです。多分、何かのシロップではないでしょうか。高任は、晩年の手紙は次女久(末娘)に代筆させたそうで、大叔母は、私はその為、男の人の字を書くようになつたと言っておりました。祖父、道太郎はあまり日本語は書きませんでしたから父、高任への手紙は英文でした。
徳川斉昭から頂いた刀
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